80年代は時代を盛り立てていた アイドルが多く活躍をしていました。
ちょうどアイドル全盛期で、『中森明菜』・『近藤真彦』などは代表格。
なので人気絶頂だったアイドル同士の2人の交際は大変な注目を浴び、いずれ結婚すると思われていましたが、1989年に非常にショッキングな出来事が…
大騒動となり、その後中森明菜本人出席による記者会見が開かれましたがその際に金屏風にも見える屏風が後ろに立てられていた為『金屏風会見』と呼ばれました。
今回は2人についてや、『金屏風会見』の真相を調べていきたいと思います!
Contents
中森明菜と近藤真彦のアイドル同士の交際
当時はアイドル全盛期。
売れっ子となれば色々と恋の話や噂が出る度に記者に追われたり苦労も絶えないのはもちろんですが噂や何かの発覚で芸能活動が大きく左右される場合も少なくない為、なかなか難しいのが本当のところ。
そんな中で発覚した中森明菜と近藤真彦の交際は空前のニュースでした。
多忙な2人のデートは大変苦労したと思いますが、数年間交際が続いていたので世間も「これは時期をみて結婚するのだろう」と予想していましたね。
ただ、この時期の彼はあちこちでモテたので彼女としては何かと気を揉んでいたそう。
特に彼女はナイーブな上に相手に尽くす一途なタイプなので、自由奔放さのある彼についていくのは辛くなるのではと心配の声も勿論ありました。
それでもお互いを信頼し合えて価値観に極端な違いがなければ一番理想ですが、これは芸能人・一般人関係なく悩める問題ですよね。
アイドル~アーティスト 中森明菜
1981年7月 オーディション番組『スター誕生』(日本テレビ系)にて合格し、レコード会社ワーナー・パイオニアと契約。
翌年1982年にシングル『スローモーション』でデビュー。
同年に2枚目シングル『少女A』・1983年3枚目シングル『セカンド・ラブ』『禁区』と立て続けにヒットし人気アイドルとして欠かせない存在に。
以降も『北ウィング』・『飾りじゃないのよ涙は』・『ミ・アモーレ』などシングルを出す度にヒットし、『DESIRE‐情熱‐』では2年連続日本レコード大賞受賞。
当時はタイプの違う松田聖子と中森明菜は何かにつけて比べられる存在で、ファンなどは聖子派か明菜派かが重要視されこれまでにない盛り上がりで、ヘアスタイルや服装などもマネをする女性ファンが急増。
そして1985年1月に公開された映画『愛・旅立ち』で初主演・女優としてもデビューし、近藤真彦との共演で大変な話題に。
1992年はテレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系)では女優の安田成美とのW主演で熱演し
1998年の連続テレビドラマ『冷たい月』(日本テレビ系)で永作博美とW主演と女優としても期待されていました。
どんどん大人の女性として変化していき儚げ(はかなげ)な雰囲気は彼女の更なる魅力となっていきます。
しかしその後 心身のダメージから休養に入り活動は停止。
いつ復帰するのかと言われていた2014年の大みそかの『紅白歌合戦』にニューヨークのスタジオより中継で出演してから、2016年・2017年とディナーショーを開催されると久々の活動を待ちわびていたファンは喜びチケットは早々に完売しました。
これから本格的に活動再開⁈と期待していたものの、ディナーショー以降の表立っての活動はありませんが『ワーナーミュージック・ジャパン』からの朗報です!
今までのシングルが入っている『中森明菜ANNIVERSARY COMPLETE ANALOG SINGLE COLLECTION 1982~1991』が2021年6月9日に発売になっています♪
歌姫 中森明菜はまた復活し素敵な声を届けてくれることを楽しみにしています!
★中森明菜 (なかもり あきな)★
■職 業■ :歌手・タレント・女優
■生年月日■:1965年7月13日生まれ
■身 長■ :160㎝
■血液型■ :A型
■出身地■ :東京都清瀬市
■出身校■ :清瀬市立清瀬中学校・明治大学付属高等学校
アイドル~アーティスト 近藤真彦
少年の時 彼は野球チームに所属していましたが、そのチーム監督の娘さんが送った写真がジャニー氏の目にとまりスカウト。
1977年ジャニーズ事務所に入り、1979年にテレビドラマ『3年B組金八先生』で俳優デビュー。
翌年の1980年には『スニーカーぶる~す』で歌手デビューをし、田原俊彦・野村義男と『たのきんトリオ』としても活動開始。
『ギンギラギンにさりげなく』・『ハイティーン・ブギ』・『ホレたぜ乾杯』・『ケジメなさい』・『ヨイショッ!』他ヒットし続け、1987年『愚か者』にて日本レコード大賞受賞。
彼は歌手の他にもう1つレーシングドライバーの顔を持つようになります。
1984年に【富士フレッシュマンレース第2戦】へ『日産 マーチ』で参戦したのを足掛かりに、日本一早い男と有名の「星野一義」氏のもとでレース活動を開始。
1988年~1998年は全日本F3選手権・1994年フランスのル・マン24時間レース・に参戦。
1994年全日本GT 選手権GT1 クラスで初優勝し、その後も優勝や入賞を獲得 。
その後1998年に当時所属の『チームTMS』協力で若手ドライバー育成の為、『KONDO MASAHIKO RACING PROJECT』が設立され全日本F3選手権を1年間監督として参戦し様々を学んだ。
2000年に今度は自分のレーシングチーム、『KONDO Racing Team』を設立。
『フォーミュラ・ニッポン』や、2006年には『SUPER GT』にも参戦開始した。
そしてジャニーズでの歌手活動も行っていましたが2020年に不倫を報じられ、事務所は彼の無期限芸能活動自粛を発表。
本人から退所の申し出があったとして、翌年2021年4月30日付けで事務所を退所。
それからは自身の『エムケイ・カンパニー』所属として活動していますが2021年7月に、11月2日にコンサートを開催を発表しました。
★近藤真彦 (こんどう まさひこ)★
■愛 称■ :マッチ
■職 業■ :歌手・タレント・俳優・レーシングドライバー・レーシングチーム監督・エムケイカンパニー代表取締役社長
■生年月日■:1964年7月19日生まれ
■身 長■ :174㎝
■血液型■ :O型
■出身地■ :神奈川県大和市
■出身校■ :明治大学付属中野高等学校
中森明菜、衝撃の行動
2人が交際して6年。
ある日、『中森明菜が自殺未遂!!』とショッキングなニュースが報道され驚きました。
しかも場所は、恋人である近藤真彦の自宅マンションの浴室…
1989年7月11日の夜、いつものように仕事を終えて当時住んでいた六本木マンションの自宅に帰った彼は浴室で大量出血し倒れている彼女を発見。
急いで119番通報し、慈恵医大病院に緊急搬送となりましたが彼女は左肘内側・関節辺りを剃刀で切っており深さ2cm・長さ8㎝。
神経にまで達する重傷で手術も6時間かかるものでした。
通報が早かったため一命はとりとめたものの、その原因や術後の状態などはどうなのかと注目を浴び連日大騒ぎに。
彼女・中森明菜の衝撃の行動となった経緯ですが、その当日は彼女はオフの日で運転免許証更新を終えた後に彼・近藤真彦の自宅マンションに行きました。
この頃は精神的に辛くなっていて、モテる彼なので気が気じゃないというのが常にありライバル的な存在の松田聖子とも彼は仲が良いため不安が増幅。
その矢先に『近藤真彦と松田聖子』の【密会‼ニューヨークキス】が報じられショックを受け、やっと保っていた最後の糸が切れたように自らの腕を深く剃刀で…
と、当時このように報じられ騒然としました。
松田聖子はこの時は米国に滞在していたため「せっかく来るんだったらニューヨークで会いましょうか」と友人として会ってお茶していただけでパチリと撮られたと。
言われているようなことは無いと釈明していますが、実はこの時もう1枚写真が存在していたとスクープも出ました。
しかしその写真は掲載されることはなく、スクープした側と事務所で話し合いが行われたとも言われています。
世間を騒がせた金屏風会見
このことは大スキャンダルとなり近藤真彦・中森明菜の両者のこれからもあるので連日の騒動を収めるために急遽この年の大みそかに中森明菜の記者会見を開くことになりました。
当日会見場所の後ろには金色に見える屏風が立てられていたのを見て、今回思いつめてのものであるならば、もしかしたら6年の交際を経ての結婚会見となるのではないかと記者は思ったそう。
それならば騒ぎに対して謝罪をし、その後結婚発表かも⁈と。
しかし会見席に現れた彼女はロングヘアからショートヘアになっていて身体は痩せ細り、着ているのは地味な色のスーツで心痛な面持ちでした。
もちろん、大変なことをしたのだから心痛な面持ちになるのはわかりますが、そうではなく様子が違うというか…
何とも言えない思いを抱えている・悔しさみたいなものを感じました。
この会見自体、彼女は無理に出席させられたような。
直前の28日にはこのタイミングで中森明菜の新会社設立を発表し急な展開で、どういう訳がわかりませんでした。
~~~会見~~~
会見前に事務所側から世間を騒がせ心配をかけたことを謝罪するところから始まり「明菜がぜひぜひ元気になった姿を皆様にお見せしたいと申しておりますので…」という前置きがあって記者たちや視聴者は「んっ?…どう見ても元気には程遠いけれど…」と、まず思いました。
「私の言葉よりもぜひ明菜本人の声を聴いてあげてください」「じゃ、明菜さんどうぞ…」と彼女に引き継ぎましたが、それも何だか気持ちがこもっておらず丸投げしたように映りましたし。
そしてこの件について彼女が謝罪をした後に、この会見には彼女だけと思っていましたが彼・近藤真彦が途中から同席で驚きました。
彼女は申し訳なさと何か違う思いも混じり、涙を見せていましたが「明菜さんに励ましの言葉を」と言われた彼は「まず、一番はじめに喜ばなければいけないのは彼女がこうして皆さんの前に出られたということだと思います」と。
「んっ?喜ぶ⁈…」と、疑問が。
「これは勿論僕も、ここにいらっしゃるマスコミの皆様も一緒に彼女を応援していってあげなければいけないと思います。」
事件については黙っていなくてはいけないという立場にあり、とても辛い半年だったとも話しています。
「こうして明菜ちゃんが復帰をするレールを引くお手伝いが少しでも出来たということにすごく今、喜びを感じて1989年最後をこうして飾れたということが一番僕にとって嬉しいことです」
歌にドラマにレースに頑張っていくということで締めました。
後半は限られた時間の中で記者・リポーターから彼女への質問へ。
この件については近藤真彦のこと・家族関係のこと・事務所とのことなど色々報道されていましたが今回の核心である「死のうと思った一番大きな原因はなんだったのか、ファンの方々もそこを心配している」と。
「本当にこの短い時間では言いようのない辛いことだったんですけれども私が仕事をしていく上で一番信頼していかなくちゃいけない人たちを信頼することが出来なくなってしまったということです…」
「あとはこの短い時間では言えません…」と答えていました。
「本当に何て愚かな馬鹿なことをしてしまったと自分でも思っています…でもやっぱり自分が一番信頼出来た信用の出来た、たった一人の人だったので近藤さんのマンションい行ってしまって…」
「そして最初に見つけて欲しかったって思ったんですけど、そんな大切な人をこんなに傷つけることになってしまってどうしようもない馬鹿だと…」
彼に向けての気持ちはいかがですか?と聞かれ、謝罪と感謝を声を詰まらせながら伝えていました。
最後に、婚約や結婚の予定はあるのかを2人のどちらかでも答えて欲しいとの要望には近藤真彦が「そういうことは全くありません」と言い切りました。
会見は終了し、多くの人が納得しきれず違和感しかないという感じでした。
これには記者・視聴者の目にも異様に映り『金屏風会見』と呼ばれ、記者会見の意図を問う声や事務所への疑惑・不信感も大きなものとなりました。
金屏風会見の真相は
この時は何といってもまだまだこれからを担う2人。
この会見には水面下でお互いの事務所などが話し合い、内容が決められたと言われています。
彼女は事件前、精神的に凄く追い詰められてしまっていたそうで、その時に誰かが理解してあげられたらまた違っていたかもしれません。
事件後、実は彼は高級マンションに引っ越していて退院後から彼女はそこにいたのだとスクープされています。
会見会場にも彼のマンションから向かったと。
なので自分の気持ちとは裏腹な状態になってしまったことは本意ではなかったと思います。
何とも言えない辛さが彼女の表情ににじみ出ていたというか…
それに彼女の神妙な面持ちの重い空気の会見で、後ろの金色に見える屏風が記者も視聴者も何より腑に落ちませんでした。
再出発を祝うという意味合いでこの屏風の色だったのでしょうか。
2人の場合、人気絶頂期ということも簡単に結婚までは許されない立場ということだったのではと。
アイドルや芸能人となると交際は出来ても結婚するにはある程度の年齢やお互いの仕事量やファン層などバランスが必要になるので、やはりなかなか難しいのかもしれません。
まとめ
今回は【中森明菜と近藤真彦の金屏風会見の真相とは?中森明菜はだまし討ちされたのか】をお伝えしましたが、いかがでしたでしょうか。
一般でも本当に様々大変なことがありますが、芸能界はまた違う大変さや苦労が多いようですよね。
その中で活躍し続けていくというのは並大抵のことではないと感じました。
そして だまし討ちされたのかについては、ほぼその状態に近いと思います。
難しいかもしれませんが、でもやっぱり『歌姫 中森明菜』が再復活し歌声を聴かせて欲しい。
笑顔の彼女が観られる日を信じて応援していきたいです!
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